「桜の木の下には」とは
桜の木の下には死体が埋まっている。
という独特の言い回しから始まる
「檸檬」などで有名な梶井基次郎さんの短編小説。
正確には「櫻の樹の下には」
この小説を読みボクは不思議と共感をしてしまった。
最初怖くて重くて引いたんだけど
なぜか引っ張られる。
恐ろしいほどの説得力。
とても短い話なのでぜひ読んでみて欲しい。
「桜の木の下には」の紹介
青空文庫で無料で読めるのでぜひ。
こちらから。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html
桜の樹の下には屍体したいが埋まっている。
これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
こんな始まりってある?びっくりだよ。
でも不思議と不快じゃない。
それどころか気になって仕方がない。
これぞ梶井マジックなのだろう。
人間の興味の核をついてくる。
いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気の中へ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻ったこまが完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心をうたずにはおかない、不思議な、生き生きとした美しさだ。
ここの文章が特に好き。
一見よくわからない抽象的な文章な気もするが、
油断していると次の文章でさらっと核心をついてくる。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
やられた。
これはボクなりの解釈だが、
美しさと妖しさは表裏一体だ。
美しいが故に、哀しい。美しすぎて絶望する。
こういったことは30歳を目前にした今、
やっとその断片をつかむ所まで至ったと自負している。
そして圧倒的な美しさは多くの犠牲の上に成り立っている。
目に見える部分はとても美しく
そればかりが印象に残ってしまいがちではあるが
目に見えない根の部分にはどんな物語が眠っているかわからない。
ここまで美しいのだから根も美しいと考えることもできるが、
それでは何も惹かれない。見えない部分にヒズミがあるから
中毒性が生まれ、独特のニオイを放つのだ。
人間と同じ。
ただ容姿に優れただけの空っぽ人間はひどく滑稽だが
その奥底に尋常じゃない何かが眠っている人間は
とてつもなく人を惹き付ける。
ボクはこの小説を読み、そう感じた。
そしてとどめのこの文章。
俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和なごんでくる。
これが全てだと思う。
現代はどうして綺麗なものしか受け入れようとしない?
なぜ規制ばかりかける?
美しいものだけを流しても、それは結局薄っぺらくて軽い。
そんな吹けば飛んでいくようなものばかりが
街中を浮遊しているような世界の一体なにが面白いのだろう?
そして、それは本当に美しいと言えるのだろうか?
甚だ疑問だ。ボクにはわからない。
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
いったいどこから浮かんで来た
空想かさっぱり見当のつかない屍体が、
いまはまるで桜の樹と一つになって、
どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、
あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、
花見の酒が呑のめそうな気がする。
素晴らしい小説に出会えた事えの感謝と
31歳という若さでこの世を去ってしまった
梶井基次郎氏に敬意をこめて。
今年もまた、桜の季節になりましたよ。